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アニメンタリー決断大事典

連合艦隊

日本海軍における戦時下の艦隊編制。

連合艦隊は1894年7月19日、日清戦争において初めて編制された。この時の連合艦隊は新鋭艦で編制された常備艦隊と旧式艦で編制された西海艦隊(連合艦隊編制時に警備艦隊から改称)からなり、連合艦隊司令長官は常備艦隊司令長官が兼任した。
日清戦争後、連合艦隊は1895年11月15日に解散したといわれているが、5月11日、5月17日、5月18日、1896年3月31日に解散したという説もそれぞれある。

日露戦争時は、1903年12月28日に常備艦隊の編制を解いて第1艦隊・第2艦隊・第3艦隊を新編、第1艦隊と第2艦隊で連合艦隊を編制した。連合艦隊司令長官は第1艦隊司令長官が兼任した。
1904年3月4日に第3艦隊、1905年6月4日には新編された第4艦隊が連合艦隊に編入された。
日露戦争後の1905年12月20日、連合艦隊は解散した。

その後は大演習などに際して連合艦隊が臨時に短期間編制されたが、1922年より毎年教育年度の初頭に編制することに改められた。
1924年からは当分の間、第1艦隊と第2艦隊で連合艦隊を編制することに改められ、実質的に常設態勢となった。
1933年5月から戦時態勢への移行を容易にするため、平時より連合艦隊が常設されるようになった。

連合艦隊司令長官は第1艦隊司令長官を兼任し、連合艦隊旗艦は第1艦隊第1戦隊の戦艦を旗艦とした。しかし、連合艦隊内の艦隊が増加するに伴い、連合艦隊司令長官が第1艦隊司令長官を兼任しながらの指揮は次第に困難となってきた。
そこで1941年8月11日、第1艦隊から連合艦隊司令部を独立させて新たに第1艦隊司令部を設置、連合艦隊司令長官は連合艦隊の全指揮に専念することになった。
司令部は独立旗艦としたが、これには予備艦が1隻必要だったので、戦艦長門と陸奥で編制された第1戦隊を連合艦隊直属とし、連合艦隊司令長官が第1戦隊を直率した。

開戦後、戦線が拡大するに伴い、広範囲に分散した艦隊を指揮するのが次第に困難となった。また、戦局の悪化に伴い旗艦としていた戦艦を第一線に投入する必要も生じたため、1944年2月に連合艦隊旗艦を変更することが決められ、1944年5月3日に軽巡大淀に旗艦が移された。
だが、敵の攻勢がどこで行われるか判断が難しくなると、従来よりも中央と密接に連絡をとりながら指揮を執る必要が生じた。そのため1944年9月29日に神奈川県日吉の慶応大学の建物に司令部を移し、陸上から指揮を執ることにした。

1945年4月25日に海軍総隊が新編されると、連合艦隊は海軍総隊の隷下となり、海軍総司令長官が連合艦隊司令長官を兼任した。
連合艦隊は1945年10月15日をもって解散した。

連合艦隊司令長官は親補職で、大将または中将が親補される。
連合艦隊司令長官は指揮下の艦隊を統率するが、軍政に関しては海軍大臣の指示を受け、作戦に関しては軍令部総長の指示を受けるものとされていた。

歴代連合艦隊司令長官
1939年8月30日~山本五十六中将(第1艦隊司令長官兼任)
1941年8月11日~山本五十六大将
1943年4月21日~古賀峯一大将
1944年5月3日~豊田副武大将
1945年4月25日~豊田副武大将(海軍総司令長官兼任)
1945年5月29日~小沢治三郎中将(海軍総司令長官兼任)
1945年10月15日解散

関連用語: 第1艦隊第1戦隊大和武蔵大和型戦艦| 長門|長門型戦艦

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