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アニメンタリー決断大事典

大和型戦艦

日本海軍戦艦。同型艦に大和、武蔵がある。
大和型は無条約時代に入ってから建造された世界最大の戦艦。

日本海軍はロンドン条約締結直後から、その条約が期限を迎えた時に備えて大和型(次期主力艦)に関する研究をはじめていた。
日本は仮想敵の米国に対して国力に大きな差があったため、主力艦の数をもって米国の主力艦に対抗するのは不可能だった。そこで遥かに勝る戦闘力を備えた主力艦を数隻建造することで、量的不足を質的優位によって補おうと考えて建造されたのが、この大和型であった。

大和型は大和、武蔵、信濃、111号艦(艦名未定)の4隻が起工、大和は1941年12月16日に竣工、武蔵は1942年8月5日に竣工した。信濃はミッドウェー海戦後に策定された空母増勢計画により空母へ改造の上、1944年11月19日に竣工、111号艦は起工直後に建造中止になり解体された。
膨大な資材と予算および人員を投入して建造された大和型であったが、誕生した時には海戦の主役は空母に移され、その能力を発揮する機会はなかった。

主砲

45口径九四式46cm砲を装備。3連装砲塔を艦の前部に2基、後部に1基、計3基9門を搭載した。
この砲は、公式には45口径九四式40cm砲と称され、46cm砲であることを秘匿していた。
最大射程42,000m、最大到達高度11,900m、初速780m/秒、発射速度は最大仰角45度で約40秒に1発、最大射程時の着弾までの飛行時間は98.6秒だった、
砲1門当たりの弾丸定数は100発、9門全部で900発が用意された。
威力は20,000mの距離で舷側なら566mm、甲板なら416mmの装甲を、30,000mの距離では舷側なら167mm、甲板なら230mmの装甲を貫通できた。
砲塔の前面装甲は650mm、側面250mm、側面190mm、天井270mm。
一斉射撃時の反動は約8,000tにおよんだ。

46cm砲の搭載
軍令部は主砲に46cm砲の搭載を要求した。これは米海軍の次期主力艦が搭載すると思われる40cm砲を凌駕するためである。
米海軍が40cm砲を搭載すると思われる根拠は、パナマ運河の通行を考慮した結果であった。パナマ運河の閘門の幅は33.5m、ここを通行できる艦船の最大幅は33mが限度で、この幅で46cm砲を搭載し、十分な防御力と高速力を備えた主力艦の建造は不可能と思われた。それでも無理をして46cm砲を搭載した場合、防御力または速力、あるいは両方を犠牲とした艦型にせざるを得ないと見ていた。
最も、パナマ運河の通行を諦めれば、十分な性能を持った46cm砲搭載艦を建造できるが、その場合、太平洋と大西洋の両洋に主力艦を展開する必要があり、それには相当数を揃えなければならず、いかに国力のある米国でも無理であろうと考えられた。
したがって、米海軍は46cm砲搭載艦を容易には建造できないとの結論を出し、大和型には46cm砲の搭載を決めた。

口径数
主砲の口径は45口径または50口径の搭載が検討された。45口径と50口径を比較すると、50口径の方が射程も威力も勝っていたので、軍令部としては当然、50口径を最初に要求した。しかし、50口径の製造は不可能ではないにしても、技術的にも設備的にも難しく、また、砲塔重量増大による排水量増加も考慮されたため、最終的には45口径に落ち着いた。

門数・砲塔数
門数と砲塔数は、連装4基8門、3連装3基9門、連装2基+3連装2基10門などが検討されたが、砲塔重量、砲塔配置、防御方法などから、3連装3基9門が得策と判断された。これは連装4基8門とした場合、重量バランスは好都合であったが、砲1門当たりに必要な重量は連装4基より3連装3基の方が有利であった。
また、連装2基+3連装2基の場合、2種類の砲塔を設計製作しなければならず、工期にも間に合わないなど、合理的ではないと判断されたからであった。

砲塔配置方法
砲塔の配置方法は、英戦艦ネルソン型のような前部に集中配置する方法と、艦の前後に分けて配置する方法が検討された。艦の前部に集中する方法は弾火薬庫の防御重量が少なくすみ、一見有利なように見えるが、前方に重量物が集中するために艦のバランスが悪く、砲の後方射界も不足した。
一方、艦の前後に砲塔を配置する方法は、重量のバランスが良く、射撃上も好都合であり、艦橋の位置も後方に偏らないため操艦が楽という点から、前部2基、後部1基の配置となった。

副砲

60口径三年式15.5cm3連装砲を装備。竣工時は艦の中心線上に前後各1基、両舷に各1基、計4基12門を搭載した。
この砲は最上型巡洋艦が搭載していたもので、20.3cm砲に換装するために撤去されたものを大和型の副砲として流用した。
最大射程27,400m、最大到達高度12,600m、初速980m/秒、発射速度は最大7発/分であった。
威力は20,000mの距離で97mm、15,000mで107mmの装甲を貫通できた。
砲1門当たりの弾丸定数は、両舷の副砲が120発、中心線上の副砲は両舷に対して射撃可能なため、150発が用意された。

副砲塔の全周には25mmの甲鈑が張られていたが、断片を防御できる程度の能力しかなく、主砲塔と比べて防御力が著しく不足していた。これは副砲塔に主砲塔と同程度の防御力を与えると、砲塔重量が膨大なものとなり、砲塔の旋回性能が低下するからであったが、これは大和型最大の弱点となった。 特に前後部副砲の円筒支筒下部は、主砲弾火薬庫に隣接しているため、非常に危険であった。この円筒は、落下角が大きい砲爆弾を確実に防御できると考えられていたが、落下角の小さい砲爆弾に対しての脆弱性が完成直前になって指摘され、その対策として円筒支筒の周囲に800kg爆弾にも耐えうる甲鈑が追加された。砲塔旋回部に突入した砲爆弾に対しては、防炎装置の板厚を増し、中甲板貫通部にコーミングアーマーを装備することで、弾火薬庫への侵入を防止する対策が採られたが、根本的な解決は最後まで図られないままだった。

やがて、この不安は現実のものとなり、天一号作戦では戦闘の初期において、急降下爆撃機から投下された爆弾が後部副砲塔を貫通して弾火薬庫で炸裂、火災を発生させた。この火災は最後まで消火できなかった。

対空兵装

高角砲
40口径八九式12.7cm高角砲を装備。竣工時は連装6基12門を搭載して主砲発射時の爆風による破壊を防ぐため、盾で覆われていた。
この高角砲は、日本海軍の多くの艦艇が搭載した主力高角砲で、終戦までに1,306門製造された。
最大射程14,800m、最大射高9,400m、初速725m/秒、発射速度は14発/分、弾丸定数は1門につき300発が用意された。

25mm機銃
九六式25mm機銃を装備。竣工時は大和が3連装8基24門、武蔵は3連装12基36門を搭載した。
この機銃は、フランスのホチキス社からライセンスを購入して国産化したもの。日本海軍の多くの艦艇が搭載した主力機銃で、単装、連装、3連装の3種類が製造された。
最大射程7,500m、最大射高5,500m、初速900m/秒、発射速度220発/分、弾丸定数は1門につき2,000発が用意された。

13mm機銃
九三式13mm機銃を装備。大和型には艦橋の両脇に連装機銃を1基ずつ搭載した。
この機銃は、フランスのホチキス社からライセンスを購入して国産化したもの。単装、連装、4連装の3種類が製造され、主に大型艦の艦橋防御に用いられた。
最大射程6,380m、最大射高4,100m、初速800m/秒、発射速度は450発/分、弾丸定数は1門につき2,500発が用意された。

航空兵装

搭載機は主砲発射時の爆風による破壊を防ぐため、飛行甲板直下の格納庫に収容。射出機は艦尾の両舷に1基ずつを装備した。
搭載機数は零式水上偵察機と零式水上観測機を計6機搭載できたが、実際には1942年7月当時で大和は零式水上観測機を3機、武蔵は2機が定数とされ、1944年3月以降は大和も2機であった。これは飛行機と搭乗員が基地航空隊に優先的に配備され、艦隊まで行き渡らなかったからである。

電波探信儀・水中聴音機

二一号電探
対空見張用レーダー。大和は1943年7月、武蔵は1942年9月に装備。金網型のアンテナが艦橋上の15m測距儀の両側に設置された。
この電探は地上設置用に開発された一一号電探を軽量化して艦載用としたもの。最大有効距離は編隊で120km、単機で70km、測距精度は1~2kmだった。重量は840kgと重く、アンテナの全長も15mに達するため、空母、戦艦、巡洋艦などの大型艦にしか搭載できず、しかもすぐ故障した。

二二号電探
水上見張用レーダー。大和と武蔵は1943年7月に装備。2個一組のラッパ型アンテナが艦橋上部の両端に設置された。
この電探は「暗中測距装置」という味方艦同士の衝突を防ぐために開発した装置を電探として制式採用したもの。最大有効距離は戦艦で35km、巡洋艦で20km、駆逐艦で17km、測距精度は500m、測角精度は3度だったが、改良により測距精度は100m、測角精度は0.5度に性能が向上した。

一三号電探
対空見張用レーダー。大和は1944年3月、武蔵も1944年4月に装備。梯子型のアンテナがマスト中央部の両脇に設置された。
この電探は地上設置用に開発されたもの。最大有効距離は編隊で100km、単機で50km、測距精度は2~3km、測角精度は10度だった。重量は110kgと軽量のため、駆逐艦や潜水艦などの小型艦にも搭載できた。

零式水中聴音機
パッシブ・ソナー。球状艦首の直後に設置された。
この聴音機は、停止中または低速航行時に潜水艦を探知することができた。

船体性能

防御力、安定性、運用面、造船設備などの理由から水線長は256mとできるだけ短くされ、幅はそのために著しく大きくなった。
このような船体形状は水中抵抗が大きく、速力発揮の点で著しく不利であった。そのため大和型では艦首水面下を球状艦首(バルバス・バウ)とし、全速力における船体抵抗を約8.2%減少させた。
また、推進軸とビルジキールの装備法を改良したことで、球状艦首と合わせた船体抵抗は約10%減少した。これは機関出力で約15,820馬力の節約となり、排水量では約1,900tを減少できた。

防御

直接防御
当初、46cm砲弾に対し20,000m~35,000mの戦闘距離に耐えうることが要求されたが、大落角にて命中する弾丸に対しての甲鈑が非常に厚くなり、ますます排水量が増加するため、20,000m~30,000mに引き下げられた。
排水量を軽減するため、艦の主要部(砲塔、弾火薬庫、機関室、司令塔、舵取機械室など)に防御甲鈑を集中装備し、それ以外は細分化した1,147個の水防区画を設けて被害時の浸水を極限する集中防御方式を採用した。
舷側は20度外方に傾斜して410mmの甲鈑を、中甲板には200mmの甲鈑を張った。
魚雷および水中弾に対しては、水中防御縦壁を設け、舷側の甲鈑を下方に延長した形とし、艦底部にに行くにしたがい、その厚さを減少した。
艦底起爆魚雷および機雷に対しては、弾火薬庫部の底に当たる部分に50mm~80mmの甲鈑を張った。
爆弾に対しては、主要部は対弾丸防御で十分であったが、主要部の前後の上甲板には50mmの甲鈑が張られた。舵取機械室にも主要部に準ずる甲鈑が張られた。
煙路防御は、煙突内部の中甲板の位置に「蜂の巣甲鈑」と称する直径180mmの小孔を多数あけた厚さ380mmの甲鈑を張った。この防御法により、煙突内部に侵入した砲爆弾が炸裂しても缶室への被害を防いだ。

間接防御
浸水による艦の傾斜を急速に復原するために注排水装置を搭載した。
艦が被害を受けた場合、戦闘に支障のない左右の傾斜角を4度以内、艦首尾の乾舷差を2.3m以内とするため、反対舷の注排水区画へ注水することで復原できるように計画された。
注排水区画は急速注排水区画と通常注排水区画とに分けられていた。急速注排水区画は最初の被害に対するもので、傾斜復原の発令から5分以内に前記の範囲内に復原できるように計画された。排水は発令から30分以内に完了できるようにされていた。
通常注排水区画は、第2、第3の被害に対するもので、注排水とも発令から30分以内に完了できるように計画された。この装置により、最大13.8度の傾斜を復原できた。
また、前後部に各10台設置された重油移動ポンプで、重油を移動することで最大4.5度の傾斜を復原できた。
注排水装置で13.8度、重油移動ポンプで4.5度、合わせて18.3度までの傾斜であれば、ほぼ復原できるとされていた。

機関

当初の計画では、航続距離の延長と燃料の節約のため、タービン機関とディーゼル機関の併用としていた。タービンだけの方が機関重量と占有面積の点で有利であったが、必要な燃料搭載量を合わせると併用の方が有利であった。
しかし、その頃、試験的にティーゼルを搭載した潜水母艦「大鯨」では故障が続き、本来の性能を発揮できないでいた。もし、大和型が竣工してからこのような故障が起きても、機械室の上部には船体構造の一部を兼ねた200mmの甲鈑が張られているため、換装は不可能に近い。そのため、信頼性に問題のあるティーゼルの採用は見送り、全てタービンに改められた。
この変更で、機関、燃料の増加などのため、排水量は3,000t増加し、航続力は要求の18ノットで8,000海里から16ノットで7,200海里に減少した。

速力

軍令部では当初、米海軍の新型戦艦の速力を25ノット程度と予想して、それを上回る30ノット以上を要求した。
この要求を満たすには大馬力の機関を必要とし、排水量も増加するため、最終的に27ノットに引き下げられた。

燃料搭載量

計画の速力16ノットで7,200海里の航続力を満たすには、6,300tの燃料が必要とされていた。しかし、完成して公試を行なうと、11,000海里以上の航続力があることが分かり、要求された航続力を満たすには、4,200tの燃料で十分であることが分かった。これは、万一航続力に不足が生じては問題になるという判断から、燃料搭載量に余裕を持たせたからであったが、結果的に艦が必要以上に大きくなり排水量の増大を招くことになった。竣工後、燃料搭載量の減少が図られ、減少した分は予備浮力とした。

搭載艇

設計上は16隻までの搭載が可能であったが、通常は14隻を搭載した。搭載艇は爆風対策のため第3主砲の両舷下方と、斜め後方の短艇格納庫に全艇を収容した。搭載艇は17m内火艇2隻、15m内火艇艇1隻、11m内火艇1隻、12mランチ4隻、8mランチ1隻、9mカッター4隻、6m通船1隻を搭載した。
なお、1944年に両舷の副砲を撤去して対空兵装が増強された際、搭載艇の大半を撤去して、増員された乗組員の居住区とした。

機密保持

大和型の建造は徹底的な機密保持の下に行われた。これは46cm砲搭載艦を建造していることが他国、特に米国に知られ、これに対抗する戦艦を建造されては、優位を保てる期間が短くなるからである。また、竣工後に46cm砲搭載艦であることに気がついて、それに対抗できる戦艦の計画をはじめても、完成させるまでには3年から5年はかかると見られ、その間は優位が保てると考えられたからでもあった。
大和型の取扱いは、最高機密の「軍機」と指定された。建造は極秘裏に行われ、特に主砲の口径と、これを察知可能な排水量は高度の機密事項とされ、たとえ工事関係者といえども、各部の最高責任者以外には知らせない方針がとられた。

大和型2隻の建造予算は、1937年の第3次補充計画に含めて要求された。この時の要目は、基準排水量35,000t、40cm砲9門、速力26ノットの戦艦として扱われ、本当の要目は秘匿された。そのため、予算はこれに見合った分しか要求できず、大和型を建造するには不足であった。そこで、同じ第3次補充計画に、実際には建造しない陽炎型駆逐艦3隻と乙型潜水艦1隻の予算を架空計上して、これを大和型に流用するという策を採るとともに、実際に建造する補助艦艇の予算も一部流用された。これは予算成立時よりも実際には小型に建造し、これで浮いた予算を大和型に流用するというものであった。この第3次補充計画では、1,200tで占守型海防艦の予算が成立したが、実際には860tで建造、敷設艦津軽は5,000tで成立し、実際には4,000tで建造されるなど、数隻が200t~1,000t小型に建造された。また、これら補助艦艇の艤装品も予備品や廃艦からの陸揚品を流用して経費を節約し、その分も大和型に流用した。
なお、大和型3番艦の信濃と4番艦の111号艦は、1939年の第4次補充計画で、基準排水量42,000tの戦艦として予算を要求し、不足の予算は夕雲型駆逐艦2隻と乙型潜水艦1隻を架空計上して、これを流用した。

仮称艦名は大和が第1号艦、武蔵が第2号艦と付けられ、大和は呉工廠で、武蔵は三菱長崎造船所で建造された。

大和の秘匿
大和を建造する船渠には屋根を設けて、その周囲をトタン板で囲み、ガントリークレーンの上からはシュロ縄を垂らして、海上からも山上からも絶対に見えないようにされた。また、呉市内に憲兵や特高が増員され、厳重な監視体制がとられた。

進水式は極秘裏に行われ、当日は呉市内で陸戦隊の市街戦演習を行って市民の関心をそらし、要所には憲兵や警官が配置された。海上では警備艇が出動して湾内の船舶の航行を禁止し、煙幕を展開して船渠を隠した。
進水後、艤装桟橋に曳航された大和は、艦首に横ケタを渡し、シュロ縄のカーテンを張りめぐらして艦の幅を正面から察知されぬようにした。また、大きさも比較されぬよう、付近岸壁には大型艦船の繋留が禁止された。
最高機密の主砲を隠すため、進水後直ちに主砲塔をトタン板で囲んで屋根をつけ、倉庫に見えるようにした。
工廠を見下ろせる道路沿いには目隠しの塀が設けられ、民家も工廠に面する窓は閉鎖するよう指示された。鉄道も海側の窓は全て閉鎖され、線路にはトタン板で垣根を設けて視界を遮った。
海上でも一般航路は湾内をのぞき見できないように迂回させ、軍港内に所用の船舶も検問を受けなければ入港を許可しないなど、少しでも大和の姿を見えないようにした。

工事関係者に対しても機密保持対策は徹底された。工員の身元は厳重に調査され、選抜されて担当工員に内定すると、機密を厳守するという宣誓書を提出させ、居住地区も呉市内に限定した。
工事関係者には写真が入った通門許可証と氏名、番号、写真の入ったバッジが発行された。通門の際には、このバッジを着け、通門許可証を守衛に提示して、名簿の照合と首実験をしないと、中に入ることはできなかった。また、見学者に対しても、海軍大臣の許可証を持たない者は、絶対に入場を認めず、たとえいかなる高官といえども例外は認めなかった。

武蔵の秘匿
三菱長崎造船所は三方を山で囲まれ、武蔵を建造する第2船台は海面に突き出して周囲から丸見えのため、船台の周りのガントリークレーンにシュロ縄を張りめぐらして内部を隠した。
長崎市内にも憲兵や特高が増員され、大型望遠鏡を備えた監視所を設けて、建造中の船台が見えそうな場所を徹底的に監視した。港内の交通船には警官を同乗させ、造船所に面した側の窓を閉じさせ、乗客にもその方向を見ないように監視した。対岸のソ連領事館の前には大きな倉庫を建設して目隠しがなされた。

武蔵でも進水式は極秘裏に行われ、進水式前日の午後になると、船台への出入口が当然閉鎖され、工員は缶詰状態となった。
進水式当日は、市内の要所は交通が遮断され、海岸への通行も禁止された。船舶も長崎港への出入りが禁止された。
進水後、武蔵は艤装岸壁に曳航され、その隣に艤装中の特設空母春日丸を繋留して船体を隠した。空になった船台には、進水を悟られぬように再びシュロ縄で隠された。

武蔵でも工事関係者に対しての機密保持は徹底された。工事関係者は通し番号の入った腕章を付け、この番号と顔写真の付いた台帳で確認の上、朝は腕章を渡し、夕方に回収して番号と照合の後、金庫に収めるなど、厳重な管理体制がとられた。
三菱重工の技術者に対しても設計作業のため呉工廠へ出張する際、海軍首席監督官と長崎造船所長に機密を厳守する宣誓をさせて、呉工廠に出頭してからも指紋を取るなど、機密保持が徹底された。

関連用語: 大和武蔵

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