長門型戦艦
日本海軍戦艦。同型艦に長門、陸奥がある。
長門型は八八艦隊計画によって建造された最初の戦艦。
長門型は36cm砲を搭載した米戦艦をアウトレンジするため、世界で初めて40cm砲を搭載した。
当初は、薄い装甲で全体を防御するという従来の戦艦と同じ防御方式を採用する計画であった。だが、起工直後に起きたジュットランド沖海戦の戦訓により、防御力が不足していることが明らかとなった。これは大角度で落下してきた砲弾が英巡洋戦艦の主砲塔を貫通し、内部の弾火薬庫で引火して爆沈したというものであった。そのため急遽設計が変更され、弾火薬庫や司令塔、機関室など艦の主要部を重点的に防御する集中防御方式を採用した。これは世界で初めてジュットランド海戦の戦訓を本格的に採り入れた戦艦となった。
速力についても当初は24.5ノットを計画していたが、活躍した英高速戦艦クイーンエリザベスを模範として26.5ノットに変更された。これは当時の戦艦としては高速であったが、このことは秘密とされ、23ノットと公表された。しかし、関東大震災の際に救援のため全速力で東京へ急行している途中、英巡洋艦に追尾されて実速を測定され、秘密が暴露された。
1933年8月からは遠距離砲戦能力の向上、防御力の強化などの近代化改装が行なわれた。この改装で排水量が増大し、速力は25ノットに低下した。
大和が誕生するまで連合艦隊の旗艦を長く務めた長門型は、日本海軍の象徴でもあり、国民にも親しまれていた。
長門型のうち、陸奥は爆発事故により沈没したが、長門は終戦まで生き残り、戦後はビキニ環礁で実施された水爆実験の標的艦として使用されて沈没した。