飛龍
日本海軍航空母艦。
当初は蒼龍型の2番艦として計画されたが、完成時期を条約失効後とするために起工を遅らせたところ、先に改装された加賀の運用実績や蒼龍の建造実績により、さまざまな改正が求められたため、設計を変更して新型艦として建造された。
蒼龍との主な改正点は次のようであった。
飛行甲板と船体の拡幅
飛行甲板の長さは蒼龍と同じ216.9mであったが、幅は1m増大して27mとした。これは航空本部から島型艦橋を有する艦では幅26mでは不足なので、あと1m増大するようにという要求によるものだった。この改正により艦の上部重量の増加による復原性能の低下を防ぐため、船体幅を約0.7m増大して22mとした。
艦首尾乾舷の増加による凌波性の向上
飛行甲板幅と船体幅の増大により、平均喫水は365mm増大して乾舷が低下した。乾舷が低下すると凌波性が低下するため、艦首乾舷を蒼龍より一段高め、最上甲板を艦首まで延長して錨甲板とした。だが、このままでは艦首乾舷が高くなりすぎるので、下方の甲板の高さを詰めて、乾舷を蒼龍より1m高い9mに抑えた。艦尾乾舷も同様な理由で0.4m高くなっている。
艦橋構造物の移設
艦橋構造物は蒼龍と同じ島型艦橋であるが、蒼龍では飛行甲板右舷前方に設置されていた艦橋を、飛龍では左舷中央部に移した。これは航空本部から発着艦作業の指揮に好都合であり、艦上機が高性能化して発艦距離が長くなっても発艦の障害にならないなどの理由から、以後の空母では島型艦橋は艦の中央部に設けるようにという要求によるものだった。艦橋を左舷としたのは、右舷の煙突との重量的バランスをとるためであったが、先に改装工事を終えた赤城の実績では、飛行甲板の気流を乱し、着艦もやりにくいことが分かり、この配置方法は失敗であった。飛龍では工事が進捗していたため変更できず、そのままとされたが、次の翔鶴型では再び右舷前方に改正された。
船体強度の向上
船体の電気溶接構造を鋲接に改め、艦底外板と甲板鋼板の厚さを増加させて船体強度を強化した。
構造面も、蒼龍では船体肋骨間隔を前後部900mm、中央部1,200mmの2種類としていたものを、飛龍では前後部600mm、中央部1,200mm、その中間部900mmの3種類とし、全般的に強化が図られた。
舵型式の変更による旋回性能の向上
蒼龍では舵を横列吊下式平衡2枚舵としていたが、飛龍では半平衡式1枚舵に改正し、同時に艦尾水線部にナックルを付けた。しかし、公試の結果は、小舵角における旋回圏が大きかったという。
飛龍は1936年7月8日に横須賀工廠で起工し、1939年7月5日に竣工した。
開戦時は機動部隊の主力として活躍し、特にはミッドウェー海戦では、赤城以下3隻の空母が戦闘不能となった後も、ただ1隻で米空母3隻を相手に勇戦を続け、米空母ヨークタウンに致命的な損害を与えたが、自らも米艦上機の攻撃を受けて大破、最後は味方駆逐艦の魚雷で自沈処分された。
新造時 | 排水量 | 17,300t |
全長 | 227.35m | |
全幅 | 22.32m | |
出力 | 153,000馬力 | |
速力 | 34.59ノット | |
航続力 | 18ノットで7,670海里 | |
兵装 | 40口径八九式12.7cm連装高角砲6基 九六式25mm3連装機銃7基 九六式25mm連装機銃5基 | |
搭載機 | 常用57機+補用16機 | |
飛行甲板 | 長さ216.9m×幅27m |
搭載機定数(常用機)
1941年12月~ | 艦戦×18、艦爆×18、艦攻×18 |
1942年1月~ | 艦戦×21、艦爆×21、艦攻×21 |
1942年4月~ | 艦戦×16、艦爆×21、艦攻×21 |
1942年5月~ | 艦戦×21、艦爆×21、艦攻×21 |
艦歴
1936年7月8日 | 横須賀工廠で起工 |
1937年11月16日 | 進水 |
1939年7月5日 | 竣工 |
1941年12月8日 | 第1航空艦隊第2航空戦隊に所属 機動部隊に所属してハワイ作戦に参加 |
1941年12月21日~23日 | ウェーキ島攻略支援に参加 |
1942年1月 | 南方部隊に所属してアンボン攻略支援に参加 |
1942年2月 | 機動部隊に所属してポートダーウィン攻撃に参加 |
1942年3月 | 機動部隊に所属してジャワ海掃討戦に参加 |
1942年4月 | 機動部隊に所属してインド洋作戦に参加 |
1942年5月 | 第2航空戦隊旗艦 |
1942年6月 | 第1機動部隊に所属してミッドウェー作戦に参加 |
1942年6月5日 | ミッドウェー海戦において米艦上機の爆撃を受けて大破 |
1942年6月6日 | 駆逐艦巻雲の魚雷で自沈処分 第2航空戦隊司令官山口多聞少将と加来艦長以下416名戦死 |
1942年9月25日 | 除籍 |
歴代艦長
1941年9月5日~ | 加来止男大佐 |