赤城
日本海軍航空母艦。
艦名の由来は群馬県の中央に位置する標高1,828mの活火山。
赤城は八八艦隊計画の天城型巡洋戦艦の2番艦として計画され、1920年12月6日に呉海軍工廠で起工した。翌年のワシントン条約の締結で、赤城は廃棄の対象とされたが、同条約の「廃棄が決定した既成または建造中の主力艦のうち2隻を航空母艦に転用可能」という条項を適用して、1923年11月9日に空母への改造工事に着手、1927年3月25日に竣工した。
飛行甲板・格納庫
赤城は三段式の飛行甲板を備えた。この飛行甲板は上・中・下段と三段に分かれ、上段を長さ190mの発着艦用、中段を長さ15mの小型機の発艦用、下段を長さ55mの大型機の発艦用としていた。
格納庫は三層からなり、上部格納庫は側壁を持たぬ開放式とされ、「戦時格納庫」と称した。
上部と中部格納庫は、それぞれ中段飛行甲板と下段飛行甲板に通じ、格納庫から直接発艦できた。
昇降機は前後2基あり、前部は攻撃機などの大型機用、後部は戦闘機や偵察機などの小型機用とされた。
搭載機数は常用60機+補用12機で、三式艦戦12機+4機、十式艦偵12機+4機、一三式艦攻24機+4機を搭載した。
当初の計画では、三段の飛行甲板を用いて、同時に数機が発着艦できると考えられていたが、実際に使用してみると、中段は格納庫前に羅針艦橋を設けたことで発艦不能となり、下段は飛行甲板が短すぎて発艦が難しく、しかも艦上機の性能が向上して発着艦距離が長くなると、上段の飛行甲板も長さが不足と分かり、この三段式飛行甲板は失敗と認めざるを得なかった。
煙突
煙突は重油専焼缶11基分の煙路をまとめた第1煙突と、重油・石炭混焼缶8基の煙路をまとめた第2煙突の2本が右舷中央に設けられた。
第1煙突は開口部を斜め下向きに湾曲した大型の煙突で、排出される熱煙で飛行甲板上の気流を乱さないように、開口部付近には海水を噴射して熱煙を冷却する熱煙冷却装置が付けられた。
この煙突は艦が被害を受けて右舷に傾斜したとき、煙突開口部が海水に浸って排煙が不能になる事態を想定し、上部背面の盲蓋を取り外して排煙できるように考慮されていた。
赤城で採用された斜め下向き湾曲煙突は、日本海軍の独創によるもので、使用実績も良好であり、以後の日本空母の標準的な装備方法となった。
第2煙突は上向きに湾曲した小型の煙突で、第1煙突の直後に設置された。この煙突は発着艦時には気流の乱れを考慮して使用しないことになっていた。
砲熕兵装
主砲
赤城は敵巡洋艦との交戦を想定して20cm砲10門を装備した。この砲は50口径三年式一号20cm砲と呼ばれ、新造時の空母加賀や重巡古鷹型、青葉型などにも搭載されていた。
最大射程は単装砲塔が21,200m、連装砲塔では26,600m、初速870m/秒、弾丸定数は1門当たり120発が用意された。
装備方法はきわめて特異で、前部中段甲板、羅針艦橋直前の両舷に連装砲塔を1基ずつ、艦尾よりの中甲板両舷にケースメイト式の単装砲が3基ずつ設置された。
高角砲
対空兵装として、12cm連装高角砲6基を装備した。この高角砲は45口径十年式12cm高角砲と呼ばれ、駆逐艦の主砲であった45口径三年式12cm砲をもとに開発された。
最大射程15,600m、最大射高10,000m、初速830m/秒、発射速度11発/分で、新造時の空母加賀や重巡などにも搭載されていた。
高角砲は中央部両舷の上部格納庫甲板の位置に3基ずつ装備したが、装備位置が上段飛行甲板よりはるかに低いため、反対舷への射撃ができなかった。
大改装
赤城は竣工後に明らかとなった不適当なところ、特に三段式の飛行甲板を改めるため、1935年11月から佐世保工廠で大改装工事に着手し、1938年9月に完成した。
飛行甲板の全通化
失敗だった三段式飛行甲板を廃し、艦首から艦尾にかけての全通一段式に改め、将来の艦上機の性能向上にも対応できるようにした。
格納庫の拡大
上部と中部の格納庫を拡大するため、中段と下段の飛行甲板と20cm連装砲塔を撤去し、羅針艦橋を飛行甲板左舷に設けられた艦橋構造物に移設した。
搭載機数は常用66機+補用25機となり、九六式艦戦12機+4機、九六式艦爆19機+5機、九六式艦攻35機+16機を搭載した。
昇降機は2基から3基となり、従来の前部昇降機の前方に昇降機が増設された。
艦橋の塔型化
艦橋は塔型に改め、飛行甲板の左舷中央に新設された。これは先に改装した加賀での運用実績にもとづいたもので、加賀では艦橋を右舷前部としたが、この位置では発艦作業の指揮に不都合で、艦上機の性能向上により発艦距離が長くなると、発艦の障害にもなるなどの理由から艦の中央に設置するよう、航空本部が要求したものであった。
艦橋を左舷としたのは、右舷の煙突との重量的バランスをとるためで、当時建造中であった飛龍にも、この配置方法が採用された。
しかし、改装後の運用で、飛行甲板の気流を乱すことが分かり、しかも操艦にも不都合が生じたため、その後の翔鶴型からは再び右舷前方に戻された。
缶と煙突の改正
重油・石炭混焼缶8基を全て重油専焼缶とし、従来の第2煙突は撤去して煙路は全て1本の巨大な斜め下向き湾曲煙突にまとめられた。
この改正で機関出力は131,200馬力から133,000馬力に増大したが、排水量が29,500tから36,500tに増加したため、速力は0.2ノットしか向上しなかった。
砲熕兵装の改正
新たに九六式25mm連装機銃14基を装備して対空兵装が強化されたが、高角砲は予算の関係からそのまま残された。
20cm砲は前部中段甲板の2基の連装砲塔は撤去されたが、ケースメイト式の単装砲6基はそのまま残された。
大改装の結果、近代的な空母として艦容が一新された赤城は、機動部隊の旗艦として活躍し、ミッドウェー海戦で沈没するまで日本海軍勝利の象徴であった。
要目新造時 | 排水量 | 公称 26,900t 実際 29,500t |
全長 | 261.2m | |
全幅 | 29m | |
出力 | 131,200馬力 | |
速力 | 31ノット | |
航続力 | 14ノットで8,000海里 | |
兵装 | 50口径三年式一号20cm連装砲2基 50口径三年式一号20cm単装砲6基 45口径十年式12cm連装高角砲6基 | |
搭載機 | 常用48機+補用12機 | |
飛行甲板 | 長さ190.2m×幅30.48m(上段) | |
改装後 | 排水量 | 36,500t |
全長 | 260.67m | |
全幅 | 31.32m | |
出力 | 133,000馬力 | |
速力 | 31.2ノット | |
航続力 | 16ノットで8,200海里 | |
兵装 | 50口径三年式一号20cm単装砲6基 45口径十年式12cm連装高角砲6基 九六式25mm連装機銃14基 | |
搭載機 | 常用66機+補用25機 | |
飛行甲板 | 長さ249.2m×幅30.5m | |
巡洋戦艦 計画時 | 排水量 | 41,200t |
全長 | 250m | |
全幅 | 31m | |
出力 | 131,200馬力 | |
速力 | 30ノット | |
航続力 | 14ノットで8,200海里 | |
兵装 | 45口径三年式40cm連装砲5基 50口径三年式14cm単装砲16基 45口径十年式12cm単装高角砲6基 61cm魚雷発射管8門 |
搭載機定数(常用機)
1941年12月~ | 艦戦×18、艦爆×18、艦攻×27 |
1942年1月~ | 艦戦×21、艦爆×21、艦攻×33 |
1942年4月~ | 艦戦×21、艦爆×21、艦攻×21 |
艦歴
1920年12月6日 | 巡洋戦艦として呉工廠で起工 |
1923年11月9日 | 空母への改造に着手 |
1925年4月22日 | 進水 |
1927年3月25日 | 竣工 |
1935年11月15日 | 大改装に着手 |
1938年9月 | 大改装完了 |
1941年4月10日 | 第1航空艦隊第1航空戦隊に編入、第1航空艦隊旗艦 |
1941年12月8日 | 機動部隊の旗艦としてハワイ作戦に参加 |
1942年1月20日~22日 | 機動部隊の旗艦としてラバウル・カビエン攻略支援に参加 |
1942年2月19日 | 機動部隊の旗艦としてポートダーウィン攻撃に参加 |
1942年3月 | 機動部隊の旗艦としてジャワ海掃討戦に参加 |
1942年4月 | 機動部隊の旗艦としてインド洋作戦に参加 |
1942年6月 | 第1機動部隊の旗艦としてミッドウェー作戦に参加 |
1942年6月5日 | ミッドウェー海戦において米艦上機の爆撃を受けて大破 |
1942年6月6日 | 駆逐艦嵐、野分の魚雷で自沈処分 |
1942年9月25日 | 除籍 |
歴代艦長
1941年3月26日~ | 長谷川喜一大佐 |
1942年4月25日~ | 青木泰次郎大佐 |
宿毛湾に停泊する赤城(1939年4月27日) | |
ハワイ作戦中の赤城(1941年12月) 着艦作業中らしく、起倒式無線檣を倒し、迎撃用に待機していた零戦を甲板前部に移動させている。艦橋後方の信号檣に将旗と戦闘旗が見える。 |