最上型巡洋艦
日本海軍巡洋艦。同型艦に最上、三隈、鈴谷、熊野がある。
1930年のロンドン条約の締結により、重巡の保有枠は日本が12隻108,400tに対し、米国は18隻180,000tの対米6割に制限された。
条約締結時の日本は古鷹型2隻、青葉型2隻、妙高型4隻の計8隻の重巡を保有し、対して米国はペンサコラ型2隻と完成したばかりのノーザンプトン型3隻の計5隻で、現時点では日本の方が優勢であった。
しかし、日本はこの時、建造中の高雄型4隻で保有枠が上限に達し、これ以上の新艦を建造することができないのに対し、米国は18隻に達するまで新艦を建造できるので、数年後には劣勢となってしまう。これは国防上、対米7割の保有を絶対としていた日本海軍にとっては、憂慮すべき事態であった。
そこで、重巡の劣勢を補う方策として、軽巡の保有枠を利用して重巡に劣らぬ性能を有した軽巡の建造を計画した。
日本は軽巡の保有枠が100,450tに制限されており、現時点での保有量は21隻98,415tで、残り2,035tの建造枠があった。
これに艦齢が16年(1920年以前に起工した場合)を超過して代艦が建造可能となる軽巡は利根、筑摩、矢矧(いずれも先代)、平戸、龍田、天龍、球磨、多摩の8隻、計33,620tがあり、これらを廃棄して前記の建造枠を加えれば、1936年末までに35,655tの代艦を完成することが可能であった。
さらに1937年末には、北上、大井、木曽の3隻、15,300tが艦齢超過となり、合計50,955tの建造枠を得ることができた。
この建造枠で6隻の軽巡を建造し、重巡12隻と合わせた計18隻で、米国の重巡18隻に対抗することを意図した。これが基準排水量8,500tの最上型4隻と、8,450tの改最上型(後の利根型)2隻である。
最上型4隻の建造は1931年の第1次補充計画で決定され、当初は15.5cm3連装砲4基、12.7cm単装高角砲4基、61cm連装魚雷発射管4基、速力37ノット、対20.3cm砲弾防御で計画された。この段階で8,500tに収めることは無理な状態であったが、さらに追加装備の要求が続出し、最終的には9,500tの軽巡として次のように計画された。
基準排水量 | 9,500t |
全長 | 200.6m |
水線長 | 197m |
最大幅 | 18m |
平均喫水 | 5.5m |
兵装 | 15.5cm3連装砲5基 12.7cm連装高角砲4基 25mm連装機銃4基 13mm連装機銃2基 61cm3連装魚雷発射管4基 |
搭載機 | 水偵4機 |
速力 | 37ノット |
航続力 | 14ノットで8,000海里 |
主砲
新開発の15.5cm3連装砲5基を装備。この砲は60口径三年式15.5cm砲と呼ばれ、性能は最大射程27,400m、初速980m/秒、発射速度は最大7発/分で、仰角55度までの対空射撃も可能だった。
威力は20,000mの距離で97mm、15,000mで107mmの装甲を貫通できた。
15.5cm砲の運用成績は極めて優秀で散布界も小さく、砲の操作性も高く、砲術関係者からは傑作艦砲との呼び声が高かった。
砲塔配置は前部3基、後部2基で、前部の3基は高雄型まで採用されていたピラミッド型の配置を採らず、1番と2番砲塔を上甲板上に置き、3番砲塔を一段高めて背負式とし、前方射界を広くとった。
砲塔防御は従来と同じく25mmで、断片防御程度の効果しかなかった。
この砲塔は条約失効後、短期間で20.3cm連装砲に換装できるように計画され、砲塔設計に際しては、関連寸法を20.3cm連装砲塔にできるだけ合わせて設計された。
主砲の換装は最上が1939年12月~1940年4月、三隈が1939年6月~12月、鈴谷が1939年1月~9月、熊野が1939年5月~10月に実施された。
撤去された15.5cm3連装砲塔は、戦艦大和型には砲身のみを副砲として流用、軽巡大淀には砲塔ごと主砲として流用された。
主砲の換装は秘密とされ、米海軍も15.5cm砲搭載の軽巡であると信じてきたが、ミッドウェー海戦での三隈の空中写真から、初めて20.3cm砲に換装していたことを知った。
対空兵装
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基を中央部両舷に2基ずつ装備した。
当初は、15.5cm砲が対空射撃も可能なため、12.7cm単装高角砲4基を搭載する計画であったが、用兵側から対空兵装強化の要望が強く、連装砲に改められた。
機銃は九六式25mm連装機銃4基を煙突の両舷に2基ずつ装備、九三式13mm連装機銃2基を艦橋前面に装備した。
魚雷兵装
61cm3連装発射管4基を装備。この発射管は九〇式3連装発射管と呼ばれ、最上型に装備するために開発された。重量は関係装置も含めて15.75t、旋回速度は105度で5.3秒、次発装填に要する時間は16.6秒だった。
装備位置は誘爆時の艦橋への被害を考慮し、航空甲板付近の上甲板両舷に2基ずつ設置された。
航空兵装
後檣と4番砲塔の間を航空甲板とし、甲板上に運搬軌条と旋回盤が設けられ、両舷に射出機を1基ずつ装備した。水偵は計画時は4機であったが、新造時は3機となっている。
艦橋構造物
艦橋構造物は高雄型よりかなり縮小されたものの、当初の計画では妙高型を上回る大型のものが考えられていた。しかし、建造中の1934年に友鶴事件が発生したため、重心点降下の見地から、計画の半分程度と古鷹型よりも小型のものに改められた。
防御
舷側は100mmのテーパード・アーマーを20度外側に傾斜して装着、甲板の水平部分は35mm、傾斜部分は60mmの甲鈑を装着した。
弾火薬庫の舷側は30~140mmのテーパード・アーマーを、甲板部分は40mmの甲鈑を装着した。
操舵室も100mmの甲鈑で防御された。
機関
主機は4軸合計152,000馬力、計画速力は37ノットであった。
主缶は最上と三隈が大型缶8基と小型缶2基の計10基を搭載していたが、後期の鈴谷と熊野は技術の発達により大型缶8基のみで同じ出力を発揮可能であった。
煙突は2本の煙突を一体にまとめた誘導煙突で、最上と三隈が前部煙突に6缶、後部煙突に4缶の煙路をまとめたため、前部煙突がやや太かったのに対して、鈴谷と熊野は8缶となり、前後とも4缶ずつの煙路をまとめたので、煙突の太さはほぼ同一となった。
二度の性能改善工事
要求された性能を基準排水量9,500tで満たすために極度の重量軽減が図られた。特殊高張力鋼や軽金属材、電気溶接などを広範囲に使用し、不要と思われる板厚の削減などを行ったが、このような無理な軽量化は、後に欠陥を露呈し、大規模な改善工事を二度も実施することになった。
一度目は1935年3月の公試の際、推進器付近の外板に亀裂が生じ、艦首外板に凹凸が発生、3番砲塔も変形によって旋回不能になるなどの問題が生じ、大規模な改善工事が実施された。
建造中の鈴谷と熊野は工事を一時中断して、中甲板以上の高さを減じるなどの重心降下と重量軽減による復原力改善工事が実施された。しかし、最上と三隈はすでに完成していたので、バラスト搭載などの応急策で済ませ、改善工事には至らなかった。
このため、基準排水量は11,200tに増大し、水線長198.3m、水線幅18.45m、平均喫水6.15mと変化し、速力は35.96ノットに低下した。
二度目は1935年年9月の第4艦隊事件で、最上は艦首部に激しい振動と異音を発し、艦首外板に再び大きなシワが生じ、最上型の強度不足が明らかとなった。
船体強度の再確認が行われ、外板の交換や補強材の追加などが実施され、電気溶接の採用も以降の艦には大幅に制限されることになった。最上の性能改善工事は1936年4月~1938年2月まで実施、三隈も1936年4月~1937年10月まで実施された。
公試中の鈴谷と進水直前の熊野は完成期日を大幅に遅らせて性能改善工事が実施された。このため、基準排水量は12,000t前後に達し、水線幅19.15mに増大、速力は34.735ノットに低下した。
無理な軽量化のために竣工当時、意外な脆さを露呈した最上型であったが、それを改善した後は強靭な耐久性を発揮し、損傷を受けても容易には沈まなかった。
なお、最上はミッドウェー海戦で僚艦の三隈と接触事故を起こした際の損傷修理を兼ねて航空巡洋艦に改装された。後部の主砲塔2基を撤去し、その跡に航空甲板を設けて11機の水偵を搭載した。